グイノ神父の説教 

   特別な祝日
や祭日

    聖人の祝い

聖家族
神の母聖マリア
主の公現

キリストの洗礼
聖ペトロ と 聖パウロ
聖母の被昇天
十字架の称賛 

  
                  
                            聖家族の祭日   20071230

              シラ書 3,2-14  コロサイ人への手紙 3,12-21  マタイ 2,13-23

   ナザレトの聖家族について私達は少ししか知りません。 しかしながら、イエスの隠れた30年間の生活を思い出させるいくらかのテキストの中に、きわめて重要なものがあります。 特に、今日のテキストは他の家族と同じような家族ですが、同時に大変特別な家族を現しています。 というのは、政治的に亡命した家族だからです。 そういう意味で、イエスは子供時代を外国人の移住者としての状態で過ごすことになります。 イエスとマリアとヨセフは追い出され、必要不可欠なものが足りなくて、住居も見つけられないという、明日も確かでない恐れのうちに非常に難しい状態を生きていました。 今日のテキストは同時に神への大きな信頼のうちに、未来を受け入れることを私達に語っています。 幼な子イエスは両親にとって神秘でした。 イエスのせいで彼らに引き起こされる事すべてをどうなるか考えませんでした。 イエスと共に、彼らは神への大きな信頼のうちに、毎日を生きていく事を学んでいくのです。

  聖家族は非常に重大な事を私たちに語ります。 先ず、家庭生活は100年前でさえも今と全く異なります。 私たちは非常に大きな変化を体験して生きています。 例えば今では、食事の為に井戸へ水を汲みに行く必要がありませんし、下駄、もんぺ、風呂敷、火鉢も全く生活から消えてしまいました。 携帯電話、アイポット、コンピュ−タ−は人との出会い方や意思の疎通の方法を変えてしまいました。 近代の進歩を受け入れることは易しいですが、神が私達に与えられた思いがけないものを、信頼のうちに承諾する事は出来るでしょうか?

  ヨセフとマリアは、彼らの生活を完全にひっくり返したこのイエスを受け入れるのは、多分、難しかったが承諾しました。 今日のテキストは私達に違いを受け入れる事と承諾する事を教えます。 私達の小教区はもう日本人だけではありません。 あなた方の子供たちも同様で、その誕生の時に考えたのとは全く違っているでしょう。 それに人は年をとりますと、子供と両親、そして両親のおたがい同士の間の違いがもっと強調されるようになります。 50歳は20歳のように若くありません。 違いを受け入れる事はいつも易しくはありませんが、避けがたい事です。 違いを受け入れる事は人種差別に対して戦うことです。 なぜなら、人種差別は違っている事をいつも拒否するからです。 私達は他の人をありのままに受け入れるために努力する必要があります。

  今日、聖パウロは「妻たちよ、夫に仕えなさい」と結婚している女の人が喜ばない事を話しています。 しかしパウロの時代には、古代社会全体では当たり前の、共通の決まりでした。 パウロが「夫よ、妻を愛しなさい」と付け加えている事は驚くべきことです。 これはギリシャ・ローマ世界ではあり得ない事であったのは確かです。 一握りのキリスト者が世界を変えることが出来るでしょうか?  パウロは出来ると考えています。 というのは、彼は家庭生活について信仰の光のもとに考えています。 パウロは福音からもたらされる新しさを受け入れるように勧めています。 このようにパウロは既にあるものを守るように求めながら、新しさを受け入れるように提案しています。 子供についてもパウロは同じように、「子供たちよ、両親に従いなさい」と言っています。 なぜならこれは当たり前に行われている事ですが、新しい事は続きの「父親たち、子供をいらだたせてはならない」ということです。

  私達の家族はお互いに教育をする特別な場所です。 「教育する」という言葉の意味は、文字通りに「・・・から外へ引き出す」ということです。 両親が子供を教育するのは、彼らを家族のまゆ(殻)から引き出すことです。 それは彼らが実在する現実に直面する能力を持ち、彼ら自身で生きることが出来る為です。 ある子供を教育するという事は、我儘ほうだいにさせることではなく、また両親とまったく同じコピーを作ることでもありません。 ところで教育は両親の間でも行なわれます。 人生の色々な出来事を通して、お互いに教育しあい、子供たちは確かにあるやり方で彼らの両親の教育もするのです。 家族の調和はこのバランスによって構成されています。 深い忠実さのうちに聖家族はこれを実現し、そういうわけで、聖家族は今も私達の模範となっています。 利己主義や自己愛から私たちを引き出すために、イエス、マリア、ヨセフが教育して下さいますように。 神への、また他の人への信頼の恵を聖家族が私たちに与えて下さいますように。 家族がともに家で祈る重要さ、また教会で、毎日曜日、私達の人生の横糸が織りなすものを、神の前に共に持っていく重要さがここにあります。  ア−メン。

  
                    神の母聖マリアの祭日   200811

     
民数記62227節  ガラテヤ人への手紙447節  ルカ21621

  第一朗読は「主が御顔を向けてあなたを照らしますように」という、神の民を祝福する為に、大祭司によってモーセの時代から使われている祝福の祈りを、私達に聞かせます。 この祝福は、これを受ける人が神の御顔からほとばしる光で包まれ、照らされ、変貌されるように願っています。 顔はいつも心の中にあるものを表し、同時にそれが誰であるかを示します。 大祭司の祈りは神にご自分の心を表しご自分が誰であるかを私達に現すように願っています。 そういうわけで、どの時代の預言者も信じる人もいつも神の御顔を見たいと望みました。

  聖パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、時が満ちる時、神の御顔の光が現れたと書いています。 この光はイエスの人間としての顔に現れました。 「私を見た者は御父を見た」とイエスは弟子フィリップにいつか言われます。 神的な光の素晴しさはイエスの御顔に見受けられますが、イエスの弟子となった者の顔にもまた見受けられます。 神のみ言葉の光が自分の心に入るままにした者、またその口でみ言葉を宣言する者は「光の子」「神のみ顔」となります。

  ルカの福音の中で、私達は飼い葉おけに眠る子供のうちに、神の御顔であるイエスを礼拝します。 イエス、この方は世の光です。 イエスの近くにマリアがおられます。 マリアは9ヶ月間御自分のうちに宿しておられた方の光が内面的にすべて浸透していくままにしておられました。 ご自分の子が言われるのを聞いたすべてを、信仰を持って、心の内に瞑想されました。 この神の光を御自分の内に守るためです。

  マリアは神の母ですと言うのはどういう意味でしょうか? 神、イエス、聖霊とマリアとの関係は唯一で神秘的です。 マリアは本当の人であるイエスの母であると同時に、私達人類のうちで肉を取られながら、実際に神であるイエスの母です。 マリアは神によって選ばれ、全く特別な恵に神によって満たされた婦人です。 しかし彼女はそれらをすべて信仰によって毎日の体験のうちに受け止めました。

  神の母マリアは、世の光であり、神の面影であるキリストへ向かう道を私たちに示されます。 マリアはすべての祝福の泉であるイエスを私達に示されます。 彼女は私たちの信仰の成就の為に希望の印です。 マリアに従がって、度々彼女に願いながら迷う事は出来ませんし、彼女に支えられて転ぶ事も出来ません。 母と子の印のもとに、私達に与えられたこの新しい年を始めるのは良い事です。 母と子は素晴しい一致を形作っています。 一人ひとりの子供は未来を開き、約束にあふれた新しい人生をもたらします。 マリアはイエスの母であるだけでなく、同時に神によって造られたすべての人の母です。 彼女は愛と赦しの光の中に神の命を受け入れ、与える教会の母です。

  羊飼いたちは神を褒め称え賛美しながら帰っていきました! これこそこの地上での私達が生きている間にしなければならないことです。 そうです! 私達はいつも何処ででも、神を褒め称え賛美しなければなりません。 ミサの典礼定式書には、「いつどこでも神に感謝をささげることは、まことに尊い大切な努めです」と書かれています。 私達もまた神のみ顔の光のうちに留まる為に、神の祝福を度々願い受けなければなりません。 神の祝福のもとに生きるとは、試練が削除されることではありませんが、神が私の手を取ってくださるという確信を与えられる事です。 そして予定された時に私達を助けられ、神ご自身だけがご存知の方法で私達を救う為に神はそこにおられます。 神の摂理と呼ばれるものはこれです。

  この新しい年が私達みなにとって思いがけない幸せと神の摂理に満ちた年でありますように。 あなた方の上に神の恵みと平和を祈ります。 神の恵みとは、しなければならないものを完成するための神の力です。 そこから私達に希望を与える平和が流れ出ます。 神の平和、それは私たちが神に対して持っている信頼の結果です。 この新しい年が私達に何をもたらすか知りませんが、神は私達に彼の命の約束と彼の豊かな光を下さいます。 アーメン



                        主の公現の祝日   200816日 

         イザヤ6016節  エフェゾ人への手紙3章2−6節  マタイ2112

  主のご公現は教会の最も古い祝いのうちの一つです。 これは世の救い主としてのイエスを現す祝いです。 この祝日はまたパリ外国宣教会の誕生の祝いの日でもありますが、この宣教会は今から350年前にアジアの福音化の使命を受けました。 このアジアは広い地方で、ここから占星術の学者たちはやって来ました。 アジアではキリストを知らない人々は数えられないほど多いでした。 

 「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て・・・」とマタイは大衆的な話という仕方で、実際の話を私達に語ります。 彼の意向は、私たち自身が占星術の学者たちの霊的な歩みを再現するように勧めることにあります。 というのは彼らが星、神の言葉、幼な子を解読して、3つの印を物語っているからです。 神と出会うために、3つの目印が必要でした。

  確かに、神の第一の印はその創造です。 私達が発見できる第一の痕跡は自然のうちに数々の星と他の素晴しい驚くべき事です。 自然は神へ導きますが、感嘆しているという条件が必要です。 初めてそれに出会ったというような眼差し、子供の眼差しを持たなければなりません。

   神のもとへ行く第二の導きは聖書で、その言葉は汲み尽せません。 占星術の学者たちは自分の国でそれを既に発見しましたが、エルサレムの祭司たちの口を通して宣言されるのを聞きます。 そして彼らは聞いた事を信じます。 ここでもまた、神の言葉の真理と美しさを発見するには、子供の心を持っていなければなりません。 「私は知っていますよ」と決して言ってはならず、「もしあなたが子供のようにならなければ、あなたは神の王国に入らない」と言われています。 祭司たちや律法学者たちは神についてすべてを知っていると思い込んでいます。 その時、彼らは動こうとしません、彼らはエルサレムに留まり、自分たちの傲慢さと偽善の中に閉じこもりました。 決定的に信仰の中におさまっていると考える事は、永遠の救いの為に危険です。 本当の信徒はいつも自分の信仰を掘り下げるように捜し求め、質問し、神が彼に言われる事を熟考します。 全然私達を動かさない信仰は、死んだ信仰です。 いっぽう、あなたはよくご存知でしょうが、人は動かない時、死んでいます。

  第三の印は子供です。 子供というものは、まさしく全ての赤ちゃんと同様に動き,泣き、叫びます。赤ちゃんを眺める時、人は誰でも微笑み始め、もっと静かになります。 腕に赤ちゃんを抱き、自分の中に愛と慈しみが起こり、何でも許そうという思いが沸いてくるのを感じます。 イエスにおいて神は幼な子となられました。 それは私達にとって生きること、愛する事の喜びが与えられ、また私達にとって慈しみと許しを学びなおす時となります。 数々の星の調和に感嘆するままになり、神の言葉の美しさに驚嘆し、人間の面影の奥深さに感動するままになることを、占星術の学者たちから学びましょう。 そうして私達は、沈黙と礼拝のうちに、跪いて礼拝しましょう。

  なぜなら占星術の学者たちはイエスを見つけた後、彼を礼拝し、贈り物を捧げました。 黄金と没薬と乳香が現しているものをよくご存知でしょう。 これは王権とイエスの人間性と神性ですが、マリアとヨセフがそれで何をなさったか私達は知りません。 贈り物を置いた後で、占星術の学者たちはイエスを礼拝しました。 というのは、礼拝するとは持っているものを与えることではなく、自分の存在を差し出すことです。 礼拝とか信仰とか愛は神に対して自分自身を与えることで表されます。 今日一番美しい贈り物を差し出す人は、私達のレベルまで身をかがめ、ご自分をお与えになる神、その方です。

  結局、占星術の学者たちは他の道を通って自分のところへ帰りました。 人が本当に主に出会ったときは、何も前と同じようにしません。 新しい道を通ります。 事実から逃げる為に、人生の過酷さから遠く逃れる場所を見つけるために、誰も神に出会いに行きません。 祈りと礼拝のうちに神に出会うとは、神からすべてに耐える力を頂き、新しい心を持って、神の光の中を歩む力を受ける事です。

  兄弟、姉妹たち、この御公現の祝日に、占星術の学者たちの模範に習って、私たちが子供の眼差しと心を見つけて歩みますように。 こんどは私たちがキリストに向かう道を歩みますように。 私達のうちの一人ひとりのために、キリストはいつも、今も、ずっと道、真理、命です。 つまり、神が私たちに下さる一番美しい贈り物です。  アーメン。

    

                            主の洗礼    2008113

          イザヤ4217節  使徒言行録103438節  マタイ31317

   主の洗礼の祝日は主のご降誕の時期の終了と言えます。 「イエスはヨルダン川岸に来られた」と記されています。 「ヨルダン」はヘブライ語で「下るもの」という意味です。 この川の起点は標高520メートルのヘルモン山であり、死海まで降りるので、川は海抜394メートルのところにあります。 それではこの川が象徴している下降とはどういうことなのでしょうか?

   マタイの福音が私達に伝えるこの下降は、イエスが自分の罪を告白する必要は全くないのに、最も低い所に自分を置くために、天の高い所から降りられたことです! 人間になられた神が下降して、救おうと望まれる罪人たちと一つになることしかされない、そしてそれは彼らを御父の所へ連れていく為だということです。 また死の時に、黄泉の国の一番低い所にまで下降されます。 そこにひたりこんでいる罪人である人類を清め、再び天に上らせるためです。

   洗礼によって死から命へと渡った新しい民と共に、イエスによる新しい創造が始まります。 水は神秘的なもので、聖書全体に流れています。 あなたがたは洪水の破壊的な水をご存知でしょう。 また約束の地へ入らせたり、心を改心させた紅海やヨルダン川の再生の水をご存知でしょう。 水は命と死の神秘です! イエスがヨルダン川の水の中で、世の罪をご自分に引き受けられた時から、彼は全ての罪人たちと一つになられました。

   そこで、イエスの屈辱が最も低い所まで達した時、神は公式に名乗りを上げられます。 「お前は私の子、今日、私はお前を生んだ」(詩篇27)と。 その時から、イエスがしたり、言ったりされることはすべて、神の行為、言葉であると、神は公然と表明されます。 イエスのうちに、神は語られます。 キリストの人生、言葉、行いによって、人々の中で彼は父なる神の声です。 今度は聖霊が「鳩のように」下降します。 その行いは控えめで、神秘的です。 しかし、命を湧き出させる為にとても近くに、そこにおられます。 聖霊はイエスが「主で、命を与えられる」と言いに来られます。 なぜならイエスはとても他の人間に似ていますが、本当に神の子で、全く聖霊にあふれ、人間も神の子になるように、全ての人に聖霊を与えることが出来ます。

  「これは私の愛する子、彼のうちに、私の愛の全てを注いだ」とイエスは30年以上の隠れた生活の間、この秘密を持っておられました。 そして今日、ヨルダン川において、私達に対する神の愛の公然の表明があり、それはイエスが神の意思をしっかりと成就なさる公的な認識です。

  ヨルダン川の洗礼はイエスを啓示します。 私達の洗礼は周りの人々に私達を明らかにします。 そうです。 洗礼を受けるということは、私たちもまた、聖霊の力によって罪と死の水から命を与える力を再び取り戻し、御父の眼差しのもとに、自分が神の子であることを発見する事です。 イエスのように私達もまた、自分の洗礼の時、神からの霊を受けました。 この時から、この霊はひそかに、沈黙のうちに、神の意思を私達が完成するために、私達を鍛え、教育します。

 イエスのように私達も、世の砂漠に連れて行かれました。 イエスと共に試練に勝利を得るためです。 今、私達はイエスとともに、愛するおん子、復活されたおん子の食卓に進みましょう。 神の霊は私達をイエスと出会うために連れて行きます。 私たちを御父のもとへ導くためです。 三位一体の神と私たちとの出会いから、私たちが引きだす幸せはこれです。 これが人々に私達を信頼させ、私達の信仰の証が本当であるという事を示します。 イエスのように聖霊の力の中を歩み、私達が父である神の愛する子供である事を、福音にぴったりと合った私達の人生によって宣言しましょう。 アーメン


             

               聖ペトロと聖パウロの祭日     2008629日 

     使徒言行録12,1-11     2テモテ4,6-6;17-18      マタイ16,13-19

  ギリシャのイコンに使徒ペトロとパウロが頬を寄せ合っているものがあります。 彼らはキリスト・イエスに対する同じ愛のうちに繋がっているからです。 しかし注意深くこのイコンを見ますと、彼らの顔に深いしわが刻み込まれているのに気付きます。 このしわは、公然と彼らが対立しあったことを思い出させます。(ガラテヤ211節) これ程に一致しているのに全く異なっている二人の男性を見つけるのは難しいです。 しかしながら、ペトロとパウロは教会の二つの柱で、この二人は典礼においていつも一緒に祝われます。

  ガリラヤの漁師であるペトロは田舎者で、カファルナウムのユダヤ教会堂で受ける色々の教えで養われた教養以外はありませんでした。 彼はラテン語とヘブライ語を話していました。 パウロはローマ帝国の大きな町タルスで生まれ、ユダヤ人であると同時にローマ国籍を持っており、有名なラビ、ガマリエルのもとで、教えを受ける事ができるほど、高い知的養成を受けていました。 パウロはラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語を流暢に話し、書くことが出来ました。 ペトロは結婚しており、パウロは独身であるか、多分、現代の注釈学者の意見によれば、妻と別れていました。 ペトロはキリストと3年間親しく生活し、この豊かな3年間にあらゆる種類の経験をしました。 パウロはダマスコへの途上で1回だけ、キリストと示現のなかで出会いました。 それは彼がキリスト信者を迫害しに行く時でした。 ペトロは臆病な人、パウロは傲慢な人で、二人とも欠点を改めなければならない人でした。 ペトロとパウロはめったに出会いませんでしたが、その度ごとに口論しました。 彼らの旅行の道もめったに出会わず、ペトロは先ずエルサレムに、次いでローマに留まり、パウロは地中海の北をあらゆる方向に向かって、駆け巡りました。

  ペトロはへまばかりしますが、率直で非常に感情的な人です。 しかし、その素朴さの故に、実際にリーダーとして尊敬され、評価されました。 彼の岩のように強固な信仰の上に初代教会が確立されました。 彼は使徒言行録の前半の部分の中心人物です。 パウロはひ弱な健康の人でしたが、気質は激烈で、その厳格さは周知の事で、人々を怖がらせました。 パウロは宣教者としてローマ帝国の国境を、至る所通り抜け、疲れ知らずでした。 彼は使徒言行録の後半の部分の中心人物です。

  ペトロとパウロは度々福音化のやり方について口論しました。 が、イエスに対する強い愛が彼らを一致させました。 確かに、ペトロは「私を愛し、私のために身を捧げられた、キリストに対する信仰によって私は生きているのです」(ガラテヤ220節)とパウロと共に言うことができます。 二人とも、ローマで殉教する事で、キリストの証人となり、同時に教会は二人を結び合わせて、キリスト教信仰の柱として承認しました。 使徒言行録から取られた第一朗読は、イエスの死後、ペトロが使徒たちに対して、また初代教会に対して、自分の権威をどのように行使したかを、ユーモラスなやり方で、私達に語っています。 多かれ少なかれ、滑稽なあらゆる種類の出来事が起こりました。 第二朗読は、生涯の終わりにたどり着いたパウロを私達に示しています。 彼は疲れきり、幻滅して、皆に見捨てられたと嘆いています。 彼と共に生きるのはそんなに易しくはないと言うべきでしょう。 然しながら、キリストにおける彼の信仰は、確固たるものであり、彼はそれを死によって証明しました。


  福音のなかで、イエスは聖霊の動きによってご自分に答えたペトロは、教会の頭になると宣言されました。  イエスはペトロとその後継者たちに神の力を着せ、悪と罪と死に対する決定的な勝利を約束されました。 それにも拘らず、イエスはペトロやその後継者たちの弱さを良くご存知でした。 同時に、将来、教会の中で起こる多くのスキャンダルについても知っておられました。 しかし、特に、ご自分の愛と聖霊が世の終わりまで、教会と共にあることも知っておられました。 そういうわけで、イエスはたとえ教会の前に立ちはだかる障害がどのようなものであろうと、地獄は絶対に教会に打ち勝つ事はないと断言されました。 この歴史のなかで、多くの教皇が悪い振る舞いをし、ある人は人殺し、不倫、豊かさや名誉を渇望し、福音化の向上よりも自分の物質的満足を大切にするなどがあろうとも、このように断言されるのです。 然しながら、聖霊は彼らの間の誰一人も、信仰に反する誤りを教えることが出来ないように、注意深く見守っておられます。 多くの教皇が犯した公然の罪は、キリストの教会が「唯一、聖、普遍、使徒的」であることを妨げることは出来ません。 その通りです。 カトリック教会は本当に聖霊によって導かれ、いつまでもそれは続きます。 ペトロとその後継者たちは、神の国の鍵を手にしっかりと持っています。 しかし、これらの鍵は、主イエスご自身と聖霊なのです。

  聖パウロの年にあたって、使徒たちに出された質問、「私達にとってイエスはどなたですか?」に答えなければなりません。 パウロはこの質問に対して、「私にとって、生きるとはキリストです」(フィリッピ121節)と立派に答えました。 「私たちにとってイエスはどなたですか?」これは日常生活の中で、イエスがどんな位置を閉めているか、私たちの信仰や希望をどんな風に養っているか?ということを意味しています。 私たちはキリストに命を差し出す準備が出来ているでしょうか? 私たちの違いや、弱さや、試煉や、苦しみを通してさえ、死ぬまでキリストに忠実に留まって、私たちに対するイエスの愛を証ししようと望んでいるでしょうか? キリストの愛を私たちの内に受け入れ、聖霊の力のうちに恐れることなく宣言するように、聖ペトロと聖パウロが私たちを助けてくださいますように! 「私にとって生きることはキリストである」「私を愛し、私のために身を捧げられたキリストに対する信仰によって私は生きているのです」(ガラテヤ220節) アーメン。

      

                           被昇天の祭日  2008815日                

  黙示録1119節、121−6節、9節  コリントの信徒への手紙1,152027節 ルカ13956

   5月に主の昇天を祝った私達は、今日被昇天の祭日を祝います。 二つの違った言葉ですが、殆ど同じ事を語っています。 というのは、両方とも天へ昇ることと、栄光の内に入る事が二つの祝いの中心だからです。 ですからイエスの昇天とその母、マリアの被昇天との間には類似を見出す事ができます。

  この二つの出来事を比較しながら、今日の祝日の意味を引き出すのはとても易しいです。 というのは、イエスの昇天はまったく驚くべき事ですが、物事の秩序の中にある事だと言うことが出来ます。 地上に於ける彼の現存と言う点において、神の子が父の栄光のなかに帰るのは当たり前です。 本当の神であり、本当の人であるイエスは、その御託身と御昇天によって、私達のあいだにおられる神の現存の神秘を信じられるものとされました。 神は本当にご自分の民を身体的に訪問され、その上、いつも神は私たちと共におられます。 その時以来、神は内側から私たちを訪れます。 聖霊との交わりのうちに、信じる人に御父と親密になる恵を許します。 しかし、み言葉を聴き、実行に移すことと同様に、御子イエスの体と血をいただく事は、必要不可欠な条件となります。

  昇天によってイエスは、神の王国の門を大きく私達に開かれました。 マリアは私達に先立って栄光に入られた最初の方です。 聖母マリアの人生がどれほど高い地位に置かれたかは、全く驚くべき事です。 何故なら、マリアは私たちと同様に一被造物だからです。 そういうわけで、被昇天の祝いは、私達皆に関わりがあります。 結局、もし、私達の一人であるマリアが、神の栄光の中に招き入れられたのであるなら、つまり、私たちも、いつか、私達の番で、この栄光の中に入るように、呼ばれるでしょう! このことをよく理解してください。 マリアの被昇天を私達が祝う時、同時に私達自身の救いも祝う事になります。 ご自分の子イエスと同じ方法で、神の栄光の中に上げられ、マリアは天の栄光のうちに実現するものをご覧になります。それは私達の未来です。 死んで、復活されたイエスにおける私達の信仰によって、皆いつか、神において一つになるでしょう。 今日、私たちの救いの神秘、神が私たちの人生を冠で飾られる栄光の神秘を祝いましょう。

  マリアの被昇天はもう一つ他の意味を持っています。 先ほど聞いたばかりの福音のテキストがそれを私たちに教えています。 マリアの被昇天はまたご訪問です。 マリアがナザレトの人々の中におられた時、ガリラヤの婦人のする沢山の仕事をこなしておられました。 彼女は歩いたり、ロバに乗ったりして、人々に出会うことが出来ました。 しかし今、マリアは天の栄光の中にいます。 神のうちにいます。 もう彼女はまったく旅行をする必要がありません。 彼女は内側から私たちを訪れます。 神のいられるところはどこでも、マリアもまたそこにいます。 自分の人生の中で、神に場所を与える人は誰でも、マリアの現存も見つけるでしょう。

  神は自分の栄光のうちにマリアを引き寄せました。 神は彼女を目に見える表面的なものごとから去らせました。 それは神ご自身に於ける、愛の神秘の深みへ導きいれる為です。 被昇天の結果として、イエスのように、マリアも絶えず私たちを訪れることができます。 マリアの使命は変わりません。 つまり、マリアの役割は、私達が何処にいても、私達の救い主であり、神であるおん子イエスを私達に示し、与える事です。 神が留まるために見つけられた場所にはどこでも、例えば、私たちの心、私たちの家、私たちの教会の中で、マリアも私たちと一緒におられます。 もし私達が、信仰と喜びをもって、このことを良く理解するなら、その時、私達は、エリザベスの言葉を繰り返す事ができます。 「私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、なんと幸いでしょう!」と言う言葉です。 私達の幸せのためにすべてをしてくださる神に、感謝を持って、有難うと言いましょう。 そしてマリアにも感謝しましょう。 マリアは私達を神に近づけるために、また、彼女と共に栄光のなかに私たちが上げられるように、すべてをして下さいます。  アーメン

                  

                      十字架称賛の祝日    2008914

      民数記2149節  フィリピの信徒への手紙2611節  ヨハネ31317

  十字架は呪いと不幸の印であったのに、どのように祝福と救いの泉となることが出来たのでしょうか? キリストの十字架は、コンスタンチヌス皇帝の母である聖へレナによって、326年に発見されました。 カルワリオとイエスの墓も含めてバジリカ聖堂を建立したのは彼女です。 皇帝になった30年目の記念に、コンスタンチヌス皇帝はエルサレムでこのバシリカ聖堂の献堂を挙行しました。 翌日、つまり335914日日曜日に、エルサレムの司教は集まっているキリスト者に、本当の十字架を始めて公に見せました。 その時にコンスタンチヌス皇帝は、毎年914日に「十字架の顕示」を祝うように命令を出しました。 祭儀の主な典礼を考慮して選んだ名前は、「十字架を掲げて賛美する式」で、本当の十字架の聖遺物の荘厳な顕示をしました。 今は「十字架称賛」と言われています。 結局、ゴルゴタで発見された十字架の木が3つの部分に分割され、エルサレムとコンスタンチノープルとローマで保存されました。 この短い歴史的思い出は、キリスト者が昔からイエスの十字架への特別な信心をいつも抱いていたことを思い出させます。 十字架は私達の救いの道具で、キリストの十字架が私達の崇敬を受けるのは当たり前です。

  この伝統的な祝日は、この現実を私達が直視するように勧めています。 十字架上での御子のいけにえを受け取られるほど、神は私達を愛されました。 十字架上のイエスは地から上げられました。 つまり「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです」(ヨハネ316節) 十字架が表す愛の重みの故に、十字架は救いの泉である事を理解しましょう。 かつて砂漠でモーセが上げた青銅の蛇が死へ導く罪を表わしたように、キリストの十字架もまた罪が死を引き出す事を表わしますが、さらに、その十字架は私達に対する神の愛の並外れた行為となります。 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、・・・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(第二朗読)

  聖なる十字架の称賛の祝日はミサと十字架との一致の深くて壊せないつながりについて黙想するように私達に勧めます。 私達が集まるユーカリスティー(ミサ)はイエスにとって、挫折の中で最も深刻なものであり、彼の受難の始まりとなります。 この晩餐の終わりにユダは裏切り、ペトロはキリストを否認し、他の弟子たちは逃げ去ります。 イエスは自分自身を糧として彼らに食べさせたばかりです。 しかし、食べ物の消化は上手くいきませんでした。 私達の信仰と教会は、ひりひりするような失敗の只中で弟子たちの共同体が壊れる時に、生まれました。 これは信仰の神秘です。 また十字架の神秘です。 実にミサの一つ一つはキリストの贖いのいけにえを現在行なっているのです。 ミサはキリストの神性に私達を与らせようと、罪人である私達の為に亡くなられたイエスから来る救いを、日毎に思い出させます。 同時に、ご自分のいけにえによって天と地を和解させたイエスが、すべての上に挙げられたのは当然のことです。 「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました・・・こうして生きるものがすべてイエスの御名に跪き、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神を讃えるのです。」(フィリプ2章11節)

  福音のなかでイエスは十字架の上に上げられた事を、天に上げられた事に結びつけます。 十字架上での死と御昇天を一つにして、イエスが十字架の恥辱のうちに自ら望んで身を低くされた事は、栄光の中でのイエスの上昇と離されるべきではないということを、イエスは示そうと望まれます。 そういうわけで受難に直面してイエスは「父よ、時が来ました・・・子に栄光を与えてください」(ヨハネ171節)と祈りました。 私達の罪のゆえに十字架に釘付けられたイエスは、彼を信じる者すべてに永遠の命と栄光をお与えになります!

  確かに、これらすべての神秘は私達を過ぎ越していきます。 これは神秘です。 十字架のスキャンダルは救いの神秘です! 十字架の愚かさは、しかしながら、神の英知です。 このように聖パウロは1コリントの信徒への手紙の11825節で述べています。 十字架はすべての人に私達に対する神の愛を示します。 この極刑の道具の栄光がどこにあるかというと、神の愛が愚かさ、十字架の愚かさにまで及ぶものであることを、世界中に示すものとして、この十字架が使われたところにあります。 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ316節)とヨハネは言っています。 私達の信仰の中心は何かと言えば、神の子イエスを信じることです。 そしてイエスは私達を愛し、愛によって我を忘れておられるのです。 アーメン。

            


                  
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